浅香山部屋
錦糸町と両国の間に位置する浅香山部屋。ここは90年代から2000年代に渡り、当時歴代最多の1047勝の活躍をした、日本を代表する力士であった魁皇関が浅香山親方として立ち上げた相撲部屋である。

今回は浅香山親方への取材をさせていただけることになった。現・浅香山部屋は2014年に浅香山親方が友綱部屋から独立して創設した。
浅香山部屋自体は初代浅香山から四代浅香山の時代、5代目浅香山によって新たに復興したが、1927年に5代目の死去とともに閉鎖されて以来、81年ぶりの復活となった歴史がある。その稽古の様子は厳しいながらも溌剌としており、親方と弟子の力士のコミュニケーションも活発で新しいながらも強い絆が見えた稽古風景であった。

親方の現役時代である「魁皇」の名は、相撲界の歴史にも刻まれており偉大な力士であるが、その現役時代から若手の教育に関心が芽生えてきていたという。
番付が十両以上になった力士を関取と呼ぶが、関取になると身の回りの世話などをする付け人がつくようになる。
その付け人が自分の指導により強くなっていく様子を見たときに新たなやりがいを感じ、後進の育成を引退後の道として選んだと語ってくれた。

その中でも同じ部屋出身の力士であり兄弟弟子でもある戦闘竜氏とのエピソードが印象的であった。
親方である魁皇関と戦闘竜氏は友綱部屋の所属力士として、魁皇関は1988年に土俵入り、戦闘竜は1992年に土俵入りとなり、戦闘竜氏は弟弟子という関係であり、関取への昇進も同時期にしておりその信頼関係は特別なものがあった。

戦闘竜氏は関取昇級後、成績が振るわず短期間で関取から降格してしまったことがあったという。その際に戦闘竜氏は魁皇関の付け人になった。魁皇関は戦闘竜氏のその降格の原因の一端には関取になったことでの慢心が原因だったのではないかと考えたという。
同じ部屋でともに鍛え抜いてきた仲間への思い、そしてその慢心を改め、再び関取へ返り咲いてもらいたいという思いから魁皇はことさら厳しく戦闘竜氏に稽古をした。
ある日、戦闘竜氏はその厳しさに耐えられずに、
「なぜこんなことをするんだ?」と不満を漏らした。
この時に魁皇関は「もう一度強くなりたいくないのか?なりたいなら我慢しろ。なりたくないのであればすぐにやめる」と伝えたという。
しばらくの沈黙の後、戦闘竜氏は一言「ごっつぁんです」と答えたという。
その後戦闘竜氏は厳しい稽古を絶えぬき見事関取へと返り咲いた。
この時のことを振り返った親方は、「強くなりたいという気持ちには応えてあげないといけない」とその想いを語ってくれた。
優しくすれば優しい兄弟子、親方として慕ってくれるかもしれないが、それでは強くなりたいという気持ちに応えていることにはならない、甘やかして自分が好かれようとは思わなかったという。
時が経ち、その想いを知った戦闘竜氏とは生涯に渡る信頼関係で結ばれる間柄となった。
部屋には相撲のことを全く知らない子たちも入ってくるのだという。
そんな弟子たちを時間をかけて育て、一人の力士となっていく姿を見るのが何よりのやりがいだと話してくれた。
魁皇関として数々の記録を打ち立てた浅香山親方は、今度は指導者として次世代の育成に力を注いでいる。浅香山部屋の稽古場には、強さを求める厳しさと、それを支える確かな信念があった。
この部屋からどのような力士が育っていくのか、今後の活躍に注目したい。
